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HUMAN RESOURCE DEVELOPMENT 人材育成
野村忠宏【第3回】勝つために選んだ変化への道 – 変わり続ける勇気。
変わり続ける勇気。
「無駄なプライドと決別することで、自分の壁を超えた結果としてオリンピック3連覇が実現できた」
小さい身体。勝てない勝負。寄せられない期待。それでも未来を夢見た少年時代。アジア人初のオリンピック3連覇を達成した柔道家・野村忠宏氏が弱さや不安と真っ向から向き合い、覚悟を持ち続けてこられたのはなぜか?
小谷奉美 ≫ インタビュー 波多野 匠 ≫ 写真 村上杏菜 ≫ 文 NOBU ≫ ヘア&メイク
(※本記事は、2017年10月1日発行のノビテクマガジンに掲載された記事を再構成しました。)
勝つために選んだ変化への道
アトランタを得意の背負い投げで勝ち進んだ野村氏は、次のシドニーに臨むにあたり自身の柔道スタイルそのものを変えざるをえなかった。世界で研究し尽くされ対策を講じられるチャンピオンの宿命だ。技の幅を広げ見事2連覇を達成するも、3連覇をかけたアテネに挑む時には、それまでにない大きな変革が必要になった。
目標に向かって自分を作っていく、そこに生きがいがある。
「アテネに挑戦するか、それとも引退するか、すぐに決断はできませんでした。そこで柔道と関係のない生活をしようとサンフランシスコへ語学留学しました。プレッシャー、厳しいトレーニング、周りの目から解放された日々は夢のよう。しかし3カ月もすると、楽しさの中に一抹のむなしさが…。そこには期待される喜びがなかったのです。目標を持ち、そこに向かって自分を作り込んでいくことが僕の生きがいなんだと気づきました」
決意を新たに帰国予定を早めて稽古を再開するも、2年のブランクと年齢的な肉体の衰えに直面。心技体のバランスの取れたシドニー時代の”最高の自分“を脳内に描き『なんとかなるやろ』と楽観視していたが、その自信もあっさりと崩壊する。試合で勝てず世間からは『野村は終わった』とささやかれ、円形脱毛症になるほど追い詰められていった。
「どうやって勝ってきたのか思い出せないほど自分を見失っていました。野村の柔道とは何か?と考え、『攻めて、力を出し切って、最後まであきらめない、胸を張れる、自分らしい柔道をしよう』って。『カッコよく一本勝ちしなければ』という無駄なプライドと決別することで、自分の壁を超えた結果としてオリンピック3連覇が実現できたのです」
自分で決めたからこそ、常に全力で向き合い続けてきた。それが野村氏にとっての”自律“と言えるかもしれない。インタビューの合間に野村氏がふとこぼした「悔しさなんてなんぼでも落ちてる」という言葉からは、粘り強さ、やり抜く力、向上心がにじみ出ていた。
2015年に引退。五輪を3連覇するほどの野村氏の向上心は今どこに注がれているのか。
「引退して2年経った今は、柔道の楽しさを伝えるために、国内外で柔道教室を開催し、柔道の指導・普及活動を行っています。大塚製薬ポカリスエットのエールキャラバンでは、全国の高校を回り、全校生徒さんに講演、柔道部に部活指導を行っています。メディアを通じて柔道を中心としたスポーツの素晴らしさを伝える活動をしながら、今後は現役時代の柔道に代わる何かを見つけ、作り上げていきたいという思いを強く持っています」
新しいステージで”勝負“する野村氏を見る日が待ち遠しい。
野村忠宏 – 変わり続ける勇気。(了)
講師紹介
野村忠宏(のむら・ただひろ)
柔道家。
1974年奈良県生まれ。
祖父は柔道場「豊徳館」館長、父は天理高校柔道部元監督という柔道一家に育つ。アトランタ、シドニー、アテネオリンピックで柔道史上初、また全競技を通じてアジア人初となるオリンピック三連覇を達成する。その後、度重なる怪我と闘いながらも、さらなる高みを目指して現役を続行。2015年8月29日、全日本実業柔道個人選手権大会を最後に、40歳で現役を引退。2015年9月に著書「戦う理由」を出版。ミキハウス所属。
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あらゆる年代の人にも通じる目標に向かって努力することの大切さ、挫折を乗り越える方法などをお話いたします。柔道家/アトランタ五輪メダリスト/シドニー五輪メダリスト/アテネ五輪メダリスト
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