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岡田晃【第3回】吉田松陰を知る 中編 – 時代を築いたリーダー達~歴史から紐解く、プロフェッショナルの本質~
【コラムジャンル】
プロフェッショナル , リーダー , 中編 , 吉田松陰 , 夢・目標 , 岡田晃 , 時代 , 本質 , 松下村塾 , 歴史 , 知る , 第3回 , 築いた , 紐解く , 連載
2015年01月24日
時代を築いたリーダー達~歴史から紐解く、プロフェッショナルの本質~
吉田松陰がすごいのは、座学ばかりの学者が多かった時代に、自ら行動し情報収集のために全国行脚をしてしまう行動力。
新聞・テレビ・講演を通じて、様々なニュースを伝え解説している岡田晃講師が、経済評論家という立場から歴史と現代を結びつけて、その時代を牽引してきたリーダー達にスポットをあてて語る連載インタビュー企画です。
インタビュアー 八波洋介
吉田松陰を知る 中編
精力的に活動する松陰、思い立ったらすぐ行動に移す、素晴らしいです。
松陰がすごいのは、座学ばかりの学者が多かった時代に、自ら行動し情報収集のために全国行脚をしてしまう、行動力です。学問を単なる知識として考えなかったという天性のセンスがありましたね。しかし、その行動力はしばしば裏目に出てしまいます。それも、ある意味で吉田松陰の魅力かもしれません。
江戸にいた松陰は外国船の出没する東北の海防の実情を視察するため、友人の宮部鼎蔵との東北旅行の約束をしますが、長州藩からの通行手形の発行を待たずに江戸を出発してしまったのです。これは藩の許可を得ないまま勝手に旅行に出かけたことになるわけで、いわば脱藩と同じ行為です。東北旅行から江戸に戻った松陰は藩から士籍を奪われ、萩に帰ることを命じられました。ペリー来航の前年、1852年のことです。でも翌年には許され、再び江戸に出ます。そこで浦賀にやってきたペリーの黒船を視察する機会に恵まれたのです。
これがまた松陰の行動力を大いに刺激しました。外国から日本を守るには、外国の実情を知らねばならぬと思い到るようになったのです。外国船に乗り込んで外国に行く機会をうかがっているうちに、ロシア船が長崎に来たとの情報を聞いて、長崎に駆けつけましたが、ロシア船は出航した後でした。そしてついにその翌年(1854年)、またとない機会がやってきました。ペリーが再び来航したのです。松陰は黒船に乗り込むことには成功しましたが、渡航は拒否され、企ては失敗に終わります。
このため松陰は自首し江戸で投獄され、萩に送られました。極めつけには、幕府の日米修好通商条約の締結に激怒し、老中首座である間部詮勝の暗殺を計画したりもしました。流石に門弟の久坂玄瑞、高杉晋作などに止められ、この計画は実行されませんでしたが、結局この暗殺計画が松陰の命とりとなってしまったのです。感性が強いというか、直情的ですよね。 読者のみなさんに、この行動力だけは推奨することはできませんね。(笑)
吉田松陰の人間的魅力
行動力はもちろんですが、人間としての魅力を感じます。
確かにそうですね。きわめて高い学問レベル、卓越した行動力、そして一途な性格は人を惹きつけるものがありますね。 いかに人間的な魅力があったかを推測できる出来事があります。
先ほどお話ししたように、松陰は藩の許しを得ないで勝手に東北に出かけてしまったり、黒船に乗り込んで海外渡航を試みたりして、何度も藩から咎めを受けています。ところがそのたびに許されて活動を開始しているのです。海外渡航を企てるなど、普通なら許されるはずのないようなことです。
その時は幕府に江戸で投獄されたあと、長州藩に引き渡され萩の牢獄に送られましたが、約1年後に出獄し、松陰の実家である杉家の一部屋で幽閉の身となります。幽閉と言っても実家ですからね。甘い処置と言えます。そしてその幽閉室で近隣子弟のための講義を始め、翌年には杉家の敷地内にあった建物を改築して、そこでの講義を始めました。これが世に有名な松下村塾となったわけです。ですから藩の許しがなければ、今日われわれが知る松下村塾はなかったし、そこから明治維新の志士たちも育っていなかったかもしれないのです。
では藩がなぜ松陰を何度も許したのか、その理由を推測すると、藩主・毛利敬親が松陰の才能を高く評価していたとみられますし、藩の重役の中にも松陰をかばう人がいたからでしょう。松陰にはそういう魅力のある人物だったのでしょうね。
現代社会でも、例えば会社などの中で自由に仕事をやらせてもらって、仕事上の失敗の一つや二つは許してもらえたら、理想的ですよね。それには自分の知識や仕事のレベルを上げて一目置かれる存在になること、人間的にも周りから好かれるというか、信頼される、そのようなことが大事ですね。
そして、松陰はメンタル面でも“めげない”心を持っていました。何度も問題を起こし処罰された松陰でしたが、その都度、再起をかけます。様々なエピソードがありますが、獄中でも他の囚人にも講義をしていたといいます。追い詰められた状況でも、めげない心で信念を貫き、止まらないこのメンタリティ、素晴らしいですよね。これも厳しい現代のビジネス社会で生き抜いていくには必要なことですね。
吉田松陰は強い信念とグローバル感覚を持っていた
そうですね。それに松陰は高い信念を持った人物でしたね。
その通りです。それに、ただ意固地に信念が強いだけでなく、今で言うグローバル感覚を持っていたと言っていいでしょう。 当時のほとんどの武士は自分の藩が第一で、藩という枠を超えて物事を考える人は少なかったと思います。しかし松陰は藩という発想は完全に飛び越えて、広く世界を見据えて、その中で日本はどうあるべきかという考えでした。世界を見ていたその感覚は素晴らしいですよね。
松陰は、いわゆる攘夷論者でした。激しい攘夷論者だったと言ってもいいでしょう。しかしそれは単純に外国人を日本から追い出せ、というようなものではありませんでした。自ら海外渡航を試みたほどですから、外国に負けない国を作るためには海外の実情を知らなければならないという信念だったのです。やはり、新しい時代を見据えていたのです。
松陰のこの強い信念の教えを受けた弟子の中の一人である伊藤博文は、松陰の死から4年後の1863年、他の長州藩士4人とともに密かに英国に渡り、海外をこの目で見て見聞を広げました。ここにも、松陰の教えが受け継がれていました。 このような点からは、松陰の優れた教育者でもあったと言えます。
次回 吉田松陰を知る 後編
次回は、松下村塾などをとおして、松陰から影響を受けた門下生の話から、教育に対する考え方など、より深いところをお聞きしたいと思います。
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歴史上の人物から学ぶリーダー論、マネジメント論、危機管理、
そして、国内外の景気と株価を読む5つのポイントなどの講演ができる経済評論家 岡田 晃 講師のプロフィールはこちら